初期の事例のまとめ
- 開業したら前向きに・不動産・生命保険・資産運用コンサルタント
- 製造業・一流企業と取引・品質で勝負
- 小売業・開業2年・苦労の連続
- 専属得意先が倒産・金型製造
- 建設業・年収400万→10年後、年商3億→さらに5年後、年商20億!
- 人を使う苦労と醍醐味:異業種3店舗のミニ・チェーン
- 飲食業・開業11年・自信と目途がついた
- 卸売業・ルートセールス・経営は学生の頃からの夢
- 在庫管理の工夫で坪売上4倍:模型・玩具小売店
- 私の脱OL経営記(1)
- 私の脱OL経営記(2)
- 倒産からの復活
- 私の脱OL経営記(3)
- 後継者に悩む方へ・ホバークラフト社長の道楽
1.開業したら前向きに・不動産・生命保険・資産運用コンサルタント
独立する前に、宅建の免許を取り、それまでの職場を辞めて中堅の不動産会社に入った。ここで経験を積もうと思ったんだ。入って見て驚いたのは、営業社員は会社を1歩出ると、「どこでさぼろうか」と考えてるんだ。
それから、前の職場に比べて服装について厳しく、上着のボタンをはずしてたら、ものすごく怒られた。自分は不動産業界の経験が無いので、同じやり方では周りに勝てないと思い、常に「他に良い方法がないか」を考えた。
たとえば、航空機騒音のひどい地区の物件の売り出しだ。他の社員は出来るだけチラシを多く、広くまいてお客さんを捜そうとした。しかし、おれは「こんなに騒音がうるさい地区に遠くから引っ越してくるはずがない」と思ったので、その騒音には慣れているはずの近所を対象に営業をした。ローラー作戦だ。
そしたら、俺が一番最初に販売に成功し、成績も上がったんだ。でも、その会社とは肌が合わなかったので、最初の予定どおり辞めた。いざ独立開業すると、支払いばかり多くてとても大変だ。サラリーマン時代と一番違うのは、「物事を肯定的に受け止める」ようになった事だ。
努力して、それでも仕事が取れなかったとする。以前なら「やらなきゃ良かった」「やって損した」と思っていたが、今は「良い経験になった・こんどは取れそうだ」というふうに考えるようになった。そうすると本当に仕事が取れるようになるんだ。
2.製造業・一流企業と取引・品質で勝負
開業のきっかけは、勤務していた板金工場が倒産 したことだった。その後知人の工場の一角を借り、自分で仕事を探してきて板金加工を始めた。
なにしろ手持ち金が無いので必死だった。いろいろな板金加工をやったが、縁あって鉄道駅の手すりの製造・取り付けをやることになり、これが量が多く、支払いも現金だったので資金をためることができた。
そのかわり、昼間は手すりを作り、終電が終わってから取り付けに行くのだ。昼夜働き、日曜も全部は休めない。そうしないと質的に納得のいく仕事ができなかった。
それを5~6年続けたらいくらか資金がたまったので、土地を購入して工場を建てた。取り引きしていた銀行の支店長が太っ腹で不動産担保なしの保証人のみで貸してくれた。人の縁に恵まれていたと言える。
それから、これも出入りしてた先の縁でガスや薬品の検査に使うオールステンレス製のドラフトチャンバー(システムキッチンのでかいような実験機器)を作れないかという話があった。それを手がけてからはトントン拍子に事業が大きくなった。
最初から独立しようと思っていたわけではなく、やむを得ず独立したのだが、開業してからは仕事に手抜きを絶対にしなかった。仕事が向こうから来てくれたのはそのせいだと思う。
当時は、物を作るのに「手抜きをする」というのが割と当たり前に行われていたが、自分はそれをしなかった。また、仕事の話が来たら断らなかった。
自分で独立開業しようとするなら、大事なのは人の縁・それと信頼だ。 当社の製品は国立大学、一流企業・研究所で使用され、今まで苦情はなかった。再受注はある。これが当社の信頼性の証だと思っている。
自分が信頼されなければ人の縁も出来ないし、お金を借りることもできない。信頼があればお金もついてくる。自分は得意先を接待することはしなかったが、仕事の結果で信頼を得るための努力はずいぶんしてきたと思う。
3.小売業・開業2年・苦労の連続
人生への挑戦の意気込みで開業したが、実感するのは「すべてが仕事」ということだ。ストレスもたまる。日々、全力を尽くさねばならない。手抜きをすれば自分に返ってくる。
サラリーマン時代は、まあ必ず休みはあったし、自然に気分も切り替えられた。しかし今は、休日でも仕事が頭から離れないので、意識して(?)気分を切り替える必要がある。
開業に当たっての意識は熱かったが、資金計画には誤算があって、売上は目標ぎりぎりで苦労している。また、売場に立つ時間の他に、仕入れ・経理・外商にも予想外に多くの時間をとられる。
なんと言っても毎月の支払日を乗り越えるのが大変だ。サラリーマン時代にも支払い業務を任されてはいたが、後ろに社長がいたし、「払えなきゃ、しょうがねえや」みたいな気持ちもあったのは否定できない。
今では、支払いの義務と責任は自分一人にある。毎月の支払日を無事乗り切ると、正直、ほっとする。
サラリーマン時代より苦労しているから、よりよい暮らしをしたいと思うが、肝心の収入は当時より実質ダウンしてしまい、家族には多大な迷惑をかけている。自分が歯がゆく思えることもあるが、こういう苦労もいずれ、必ず実を結ぶであろうと信じ、日々努力している。
4.専属得意先が倒産・金型製造
一度、倒産寸前まで行きました。1社専属の得意先が突然倒産して、実質、年間売上の2分の1が回収不能です。でも廃業や破産宣告はどうしてもいやだった。
そこで、当時は取り引きしていなかった、親の代のお得意さんに頼みに行きました。”ある時払い”で金を借り、信用金庫に手形をジャンプしてもらい、5年計画です。
利益のほとんどを返済に回すので生活費が残りません。3万6千円のアパート代が払えなくて親の家に同居しました。夜寝ようとしても「金が足りない、足りない」という声がして、布団ごと地中にずぶずぶと沈んで、体が金縛りになる夢を見ました。
毎朝、鏡を見て「チキショー!」と叫びました。自分に対して「負けてたまるか」というカツを入れる意味のチキショー!だったんです。
金が足りなくて高利貸しからも借りました。期日にすぐ返して、またすぐ借りに行くんです。最後には顔を見ただけで黙っていくらでも貸してくれるようになりました。
地獄のようでしたが、立ち直れたのは、体力と気力だけでした。なんとか耐えられたのは、金が無くても女房に責められなかったこと。仕事で苦しんで、家でも苦しめられたら体が持たなかったでしょう。だから、いまは女房は毎月友達と旅行に行ってますよ。ぼくは絶対いやな顔はしない。心から感謝してますから。
とにかく、借金をなんとか返して、会社は立ち直りました。今は悠々と仕事してます。おかげさまで今は仕事があまっていて、順番があいたらやらせていただく状態です。お得意さんにとっては、うち以外の会社でも間に合う仕事なんですが、うちは仕上げに工夫をしているので喜ばれるんですよ。
良い金型を作るには、お得意さんの図面に忠実に、早く、安く出来るだけじゃ不十分です。
できた金型が実際に工場の中でどう使われるのか。どこをどう工夫したらより使いやすくなるか、このへんを徹底的に追及します。その工夫自体はすぐにお金にはなりません。
でも、その結果、「この仕事はぜひおたくに頼みたいから、待ってるよ」と言ってくれるお客さんがいてくださるわけです。これが信用だと思うし、これは他の商売でもおなじじゃないかなあ。
5.建設業・年収400万→10年後、年商3億→さらに5年後、年商20億!
経営は、度胸と読みだ。大きな金はどんどん使う。小さな金は倹約だ。
倹約はかっこ良くはできない。あのころ、従業員の昼飯は女房がそうめんを茹でて喰わせてたもんだ。安上がりだよ。弁当屋に頼むなんて、ぜいたくだったよ。従業員の古パンツを集めて、ウエス(ぼろ布)にしたっけなあ。そういう雰囲気だったんだ。
資金繰りの方針としては、全従業員の給料の2ヶ月分の金を銀行においとくのが目標であり、目安。
会社に独自のスタイルは必要だ。中小企業はノリで仕事をする面がある。勢いと言っても良い。それに乗れる人間は評価してやり、ついて来れない人間は自然に辞めていく。戦力にならない奴を抱えておく余裕は無いのだ。
モノを買うときや、下請けへの支払いは現金で、金を借りるときは公的資金。仕入先や、下請けにはとにかく言うことをきいてもらわなきゃならない。そうしないと、得意先の要望に応えられないからね。よそよりも、ウチの言うことをきいてもらうには、よそより良い条件で取り引きしていなけりゃならない。
甘やかすのじゃないが、下請けは大事だよ。大きな声じゃ言えないが、大手企業の雇われ社長は、こづかいが欲しくてしょうがない、かわいそうなおじさん達だ。そいつらをねらい打ちで仕事を取ってきた!
6.人を使う苦労と醍醐味:異業種3店舗のミニ・チェーン経営
零細・小企業がたとえば、支店を任せられるような人材を育て、確保するには、その人間と共通の夢を持つことですよ。何年後にはこういうすばらしい店にしよう、将来はこういう会社にしよう、という夢、ビジョンを持ち、お互いを信頼することです。 給料を良くしてやるとか、良い条件で迎えるとかのつながりもありますけど、それだけじゃあ会社が好調なときは良いけど、正直、好調なときばかりじゃ無いですから。むしろ、悪いときの方が多いくらいですから。会社の状態が悪くなれば、そういうつながりだけだったら、よそにいっちゃうかも知れない。
夢を実現するには、ステップがあって、まずこれをやる、次にこれをやる、と計画して行くでしょ。それでも、計画どおり行くとは限らないわけですよ。
そこで、計画がうまく行かないとやめていっちゃうという人も出てきます。でも、夢と目標が共通であれば、苦しいときでも前進できるんですよ。そのためには、常に夢と目標を「必ず実現できるんだ!」と言い続けなければならないし、毎日少しずつ前に進んでいるという実感を得られるように工夫をしなければならない。
これも経営者の仕事だと思います。
支店のオペレーションとか、コントロールだ何だ、も大事でしょうけど、それは、“人”の問題があって初めて成り立つんで、人が一番大事です。
私が人を見るのは、“すなおさ”だけです。技術なんかは後からでも身につけられますから。 支店を任せる社員を信頼できる、ということは、自分も社員から信頼されなければならないという事です。これに気づけば、人材は得られるものだ、というのが今の確信です。
7.飲食業・開業11年・自信と目途がついた
開業して大変なのは何と言っても資金繰りだった。子供もできたばかりで、3年くらいは苦しくて何度もやめようと思ったし、親戚からもお金を借りた。
3年をすぎる頃、何とかやっていけそうだという感じになった。5年目にはお客さんがついて来てくれた、と感じた。
小さな飲食店と言えど、それなりの壁や競争はある。やはり生き残るには工夫、努力、ガマンでしょう。他の店と同じ事をやってたんじゃダメ。ウチの場合、良い材料、おいしさ、豊富なメニューでお客さんに認められてきたと思っています。
私は、子供の頃から人と同じ事をやるのが嫌いだったので、他の店と違うことを考えるのは苦にならなかった。
もうひとつ、途中で苦しかった事は、サギにあって、180万の損害を受けたこと。一気に貯金が減りました。でも、家内は台湾出身なので、その年も里帰りさせましたよ。ほんとにお金はなかったけど。でも、家族の協力がないと商売はできませんから、そういうところであまりケチケチしない方が良いと思って。
今、楽しみは図書館から本を借りてきて読むことですね。各国の料理の本の他、マーケティングの本なんか、小さい店にもあてはまりますよ。
人間は1日1回は、感動するべきだと思うんですよ。だからうちの料理で味や栄養はもちろん、お客さんに感動、楽しさ、発見、も味わってもらいたいと願っています。
8.卸売業・ルートセールス・経営は学生の頃からの夢
開業の動機は複数あった。学生時代から経営者になりたいという希望があったし、お世話になった会社は同族経営だったので他人の自分は年をとればお払い箱か?という感覚があった。
販売実績は作っていたが、社長とは意見が合わなくなっていた。
ちょうどその頃、ショッピングセンターへのテナント出店の話があった。それらが、ちょうど自分が40歳、開業するなら限界だと思う時期に一度に来た。 ショッピングセンターへは出られなかったが、それを機会に独立しました。
サラリーマンと経営者とどちらが良いかはその人の考えによって違うでしょう。
「楽」を求めるならサラリーマンだろう。自営の場合、うまく行ってれば言うことはない。ただ、自営がいいのは、定年がない事、自分のやり方を通せるという点だろう。一番大事なのは、信用というか信頼だ。お客さんに頼られるようにならなくては。
お客さんの要望に応える。何が本当の要望なのかを読む。それには経験しかないし、仕事の過程で細かい損をしたり、試行錯誤も多かった。
自分の商売は、役所を相手にする事が多いが、信頼を作れれば相手の人の異動先が新しいお客さんになってくれたりする事もある。そうやって一つずつ縁を作って来た。 信頼も利益も、得ようとして簡単に得られるもんじゃないと思う。信頼は無くさないように努力するだけだ。約束を守る、うそをつかない…それは信頼を無くさないための努力だ。「こうすれば信頼を得られます」なんて都合の良い方法は無いだろう。油断するとすぐ信頼を無くすが…。
利益だって求めればすぐ得られる、というものではない。人がやらないことをやり、試行錯誤し、その結果として信頼や利益が得られると思う。 経営者というのは努力が必要だ。
9.在庫管理の工夫で坪売上4倍:模型・玩具小売店
満を持して出店したショッピングセンターへのテナント出店の結果は惨憺たる業績だった。商店街時代のノウハウは通用せず、得意だった高額品はまったく売れない。
商品の整理に追われ、2000万円かけたコンピュータは、数10メートルの在庫データを長々とプリンタから打ち出した。それを全部読むのは不可能だった。何が売れて何が残ってるのかもわからなくなっていった…。
そんなある日、寝床に入ってから、ふと思いついた。「全商品を管理しなくても良いのではないか。売れたものだけプリンタから打ち出して、それを補充する管理をやってみたらどうか。さっそく起き出してコンピュータのマニアルを見ながらボタンを押して見た。プリンタがうなってデータが打ち出される。1メートルくらいだった。これなら、把握できる。売れたものを補充できる。商品管理ができると・・・。
高額商品は売れにくい。回転率を重視すべし、であった。高額品、今までやってみて売れなかったものは本店に引き上げた。買いやすい価格帯の品を充実させ、商品管理は徹底した。
売れた商品の一覧をプリントアウトし、その商品名の横に手書きで発注数量を記入して問屋にファックスする。売れゆきが期待できるものは数を多く、売れそうもないものは、商品名に線を引いて消し、発注しない。問屋に在庫がなく、納品できないものは、その旨記入して送り返してもらう事にした。問屋在庫無しの場合、次の問屋に発注をする。
商品に追われるのでなく、主体的に商いをしているという手ごたえを感じた。1年後、坪当たり売上は4倍に増え、そのショッピングセンター1の成長店になっていた。
10.私の脱OL経営記(1)
たまたま、慌ただしく引っ越してきたというだけの見知らぬまち。
母の、書道教室を開きたいという希望を叶えるために選んだ業種、学習塾。
一人も知り合いのいない土地でゼロからの独立開業.....。
最初は5人しかいなかった生徒を大事に、大事にしていたら2年後に50人に増えていた。
しかも、進学塾のワクを超え、生徒の考える力を育てようとしている。卒業生がUターンして先生になってくれるのも夢じゃない。
今回は、彼女が経営者として独立するまでの過程をご紹介する。
某年3月、大学卒業後、外資系損害保険会社に就職。
5年後の独立、代理店開業を目標に仕事をした。しかし、女性の営業職は先輩の男性社員からいろいろなプレッシャーを受ける。
それをはねのけるためか髪はバサバサ、言葉遣いも男のよう。なりふり構わず営業し、上司の顔を読み、要求には先回りをし、成績を上げた。そのうち、窮屈さに嫌気がして予定を繰り上げ、在籍1年ちょっとで代理店として独立。
しかし、がむしゃらにやり過ぎたせいか、体を壊し、療養のため廃業に追い込まれた。
なぜ、そんなにまでして仕事に打ち込んだのか?両親は、彼女が社会人になるとまもなく離婚していた。父親が家庭を捨てて出ていったことが、大きなショックであった。母と娘で生活して行かねばならない。家を出て、初めての借家暮らし。「経済的に自立したい。家も買いたい」これは強烈な願いだったのだ。
病も癒え、今度はある企業の社長秘書兼運転手。朝、社長を迎えに行き、夜、送り届けるまでが仕事。しかも秘書である。会社の情報はほとんどが彼女の手を経由していった。経営者の立場と考え、現場の社員の立場の両方が理解できた。
おもしろく、大変で、しかし自分の考えと心は殺す仕事だったという。
企業を経営するというのは、もしかしたら儲かるんじゃないか。どうせ仕事するならトコトンやってみたい。
そう思ううちに母がストレスで危険な状態になっていた。なにしろ、仕事の時間帯が不規則だ。支え合っていくはずの母と娘が一緒にいる時間がとれなかった。
ふたたび、決断する時期だと彼女は感じていた。
念願のマンションを購入した土地、戸田。ここで、再び独立開業しようと決意し、母親と協力してやれる業種を検討した。母親は書道教室をやりたいと言う。
書道教室だけでは家賃を払って採算がとれない。独立開業のノウハウ本、経営などのビジネス書を200冊は読んだので、そのくらいはわかる。
いくつか検討した結果、学習塾に決めた。書道塾と設備を共有、時間帯で使い分けが出来る。しかし、学習塾の経験、ノウハウはゼロなのでフランチャイズに加入した。
加入費用1000万。工事費、賃貸保証金などもろもろ入れて1600万。
内装工事が進むのを見るのは楽しかった。内装業のおにいちゃんや職人さんともすぐ友達になった。完成間近になるとわけもなく感動した。
次回、自力で独自のマーケティングを展開し生徒を確保したこと、フランチャイズとのトラブルで再び廃業の危機に陥ったことなどを紹介する。同時に彼女の特徴的な生い立ちも少しずつ明らかになる予定。
11.私の脱OL経営記(2)
戸田にやってきた彼女は、両親の離婚という痛手をふりはらい、生活の基盤を確立しようと、塾の経営で一応の成功を見るに至るのだが、そのまえに、生い立ちについてご紹介したい。
父の仕事の関係で、少女時代はスイスで育った。
最初は当然言葉がわからない。そのためイジメにあった。東洋人ということでバカにされるのだ。東洋人は自分一人。孤独を感じた。
高校生になって、日本に帰ることになったが、今度は日本でイジメにあった。
日本の勉強や遊び、つきあい方についていけない。
勉強だって、まず国語がダメ。社会、歴史もジャンルが違う。スイスではドイツ語だったので、英語もあまりできない。
要するに、勉強はだめだったのだ。しかも、大学受験は近づいてくる。やはり大学には行きたかった。それには、勉強するしかない。小学校6年、中学3年、合わせて9年分の勉強を3年間でやった。苦しかったが、がんばった。その甲斐あって、めざす大学に合格!
こんどは大学生活だ。こんどこそ楽しい毎日が待っている?
しかし、大学のカラーのせいか、遊び友達はみんなお金持ちのおぼっちゃまくん、おじょうちゃま達だった。パパマネーで思い切り楽しむ人々。
そいつらとつきあうにはお金がいる。今度はアルバイトに精を出す毎日に。
ここまで彼女の生い立ちを追ってきて感じるのは9年分の勉強を一度にして大学に合格する能力の高さ、それと意志の強さである。
また、意志の強さは激しさにつながるであろう。
さて、塾の経営である。
彼女はこの生い立ちからわかるとおり、自分が受験で忙しくなる時期(小学校高学年~中学校)には日本にいなかったので、塾のお客さんである、子供達の生活がわからない。自分で体験していないからだ。
お客のことがわからないというのは、経営上はたいへん不利なことである。
しかし、わからないということを自覚した場合は、災い転じて福となす、弱点を長所に変えることも経営ではあり得る話である。
彼女もその中に入った。「子供達のことがわからないので、ゼロから勉強した」と言っている。
塾を始めることに決めた。決めたが、塾のことは何も知らないし、戸田に知り合いがいるわけでもないので、フランチャイズに加盟することにした。
それで3年もやれば、塾業界のこともわかるだろうと思ったのだ。
しかし、フランチャイズに頼りきりではなく、自分の足で歩こうと思った。どんな商売でも経営者が動かなければ成り立たないと思っていた。
開業に当たって、生徒の募集をしなければならない。ぜったいに。そこで、fcからは、新聞チラシを作って撒けとか、電話帳で一軒ずつ電話しろとかアドバイスをうけた。
しかし、チラシはけっこうお金がかかる。チラシ印刷のほか、新聞販売店に1枚4円近く払わねばならない。無駄が多い方法だと思った。
そこで、一計を案じ、戸田市役所にむかった。今はどこの市役所でも住民台帳の閲覧をさせてくれる。それを見て、年頃のお子さまのいる家庭をピックアップしてメモし、地図を作った。それで1軒ずつ郵便受けに手作りの入塾案内を入れて歩いたのだ。
その結果、来てくれた生徒は5人だった。そして、その生徒を大事に大事にしていたら、2年後には50人に増えていたのだ。
どう、大事にしたのか?えー、これから、それをお話しするんですが、ここで、いったん休憩したいと思います。
このつづきは、7月7日頃お送りします。では、みなさん、それまでお元気で。
12.倒産からの復活
倒産した企業の社長が努力して復活する、というストーリーは、大変派手で波瀾万丈を予感させる。
しかし、このテーマはそれほど珍しいものではない。
中小企業の倒産は平成9年8月だけで1,278件ある。また、倒産事例を専門に取り扱う経営者の会もある。
また、”計画倒産”というものもあり、たとえば商品を仕入れるだけ仕入れておいて支払いをせずに倒産、仕入れた商品はこっそり処分して、債務だけ免除してもらおうという悪質なケースもある。
今回、ご紹介する製造業(売上1500万円/月平均、従業員15人。平成9年10月現在)の事例は、倒産からの復活としては比較的地味なケースであろう。
倒産したと言っても、実際の仕事は債権者の了解を得て、社長以下従業員がそのまま継続し、5年の歳月を経て、元の規模を上回るものに復活したものだ。
倒産の原因は、今から考えると”油断”だったと思います。
そのころ(昭和59年)まで経営は順調でした。今、振り返ると、業界全体が拡大していたんです。
その、拡大の雰囲気の中で、東北のある県の工業団地から入居しないかという話があって、しょっちゅうそこに出かけていました。
その話は当社にとってチャンスだったのです。
しかし、その工場団地に誘ってくれた人の会社が不調になり、進出は延期になりました。
景気も悪くなって来ました。
わたしの会社は順調だったはずなのですが、私が留守を多くしている間に、体質が変わってしまいました。
中小企業はどうしても社長に頼るものです。
悪く言えば社長のワンマンなのです。
社長が居るときと居ないときの会社の動き・働きは全然違います。
社長の不在が長くなれば、体質自体が変わってしまうのです。
あわてて立て直そうとしましたが、工業団地の話からもなかなか抜けられず、時間がとれません。
とにかく、このままではいかん、という所まで来て、いくつかの取引先企業に支援してもらうことになりました。
もちろん、そのように私が働きかけたからです。
しかし、いったん下り坂になってしまうと、立て直すのは難しいものです。
今度は、支援してくれる会社のいくつかがおかしくなってきました。
ぎりぎりのタイミングで支援を打ち切る会社もありました。
業界も変わってきて、装置産業化してきたので、小企業にとっては、やりにくくなって来ました。
もはや、再建はむずかしいという事がはっきりしてきて、お世話になった社長、(恩人です)にこっそり挨拶に行きました。
事情を話すと、言われました。「あんたが大将なんだ。その大将が元気が無くてどうする。元気を出していけ」と言われ、温泉につれて行かれ、どんちゃん騒ぎをさせてくれました。
それからは、気持ちが落ち着いて仕事を着実にやれるようになりました。
最初の不渡りの時は、すでに支援企業の1社に一部の設備を持ち込み、経理を見てもらっていました。
銀行に「今日、不渡りを出します」と挨拶に行ったら、「不渡りを出す、と挨拶に来たのはおまえが初めてだ」と言われました。
支店長から、「あんたなら、必ず再開するだろうから、俺がいるうちなら、また口座を作ってあげるよ」と言われましたが、自分では、再開を考える余裕はありませんでした。
2度目の不渡りを出す日は平静でした。
自分ではもうダメだ、と思っていましたので、債権者会議では、迷惑をかけずに、きちんと整理することだけ考えて、後のことは考えませんでした。
しかし、借りていた工場の更新期限が来ていたので、事業を完全に閉鎖するには、建物を現状に戻したり、機械類を処分したりする出費が必要です。
たとえ機械を処分してもいくらにもなりません。
また、機械のほとんどは、最後まで支援してくれてる会社が抵当権を設定してありました。
そのほか、従業員の退職金とか、リースの支払いとか、いろいろな出費が必要になります。
その結果、債権者会議の結論は、私が事業を続けたければ続けても良い、というものでした。
弁護士の先生が私を信頼して、売掛金を自分で集金しろ、と言ってくれました。
それで、私は集金と仕入先回りに集中し、得意先と製造部門は生え抜きの工場長に任せました。
税理士からは、「つらい時はどうしても酒を飲み過ぎて体をこわす。深酒には気をつけろ」と言われました。
夜逃げをすることも頭をよぎりましたが、家内がしっかりしていて、精神的に支えてくれたので、とにかく、がんばろうと思いました。
採算を軌道に乗せるため、削れるものはすべて削り、古くても使えるものは最後まで使い、お客さんの立場に立って考え、よそでは出来ないことをやるようにつとめました。
従業員は全員一人二役以上をこなします。専門の事務員はいません。間接部門を担当している人も非常時には直接部門の仕事をします。
今のウチは、”短納期”が武器の一つですが、短納期を求めるお客さんを見つける、見分けるのにも努力しました。
その後、当社の製品をつかう消費財がブームになり、かなり業績を上げることが出来ました。
倒産した社長の進み方はいろいろです。売掛金をもって海外へ逃げる者もいれば、周りに迷惑をかけすぎたために、破産させられたり、「絶対に再開はさせない」と押さえられてしまう人も居ます。
それと、7~8割くらいの人は離婚するんじゃないでしょうか。
逃げず、離婚せず、同じ場所・同じ業種で再開したというのは少ないんじゃないでしょうか。
私の場合、確かに倒産しました。今は別会社でやっています。しかし、当時の債権者のほとんどと、今も取り引きしています。
自分の息子を修行に出したのも、最後まで支援してくれた取引先です。
もちろん、円満に行かないケースもあります。
外注先に預けた機械類を返してくれない。こちらもその分を差し引いて債務を算定しました。
当方も機械を失って損をし、先方も金にならない機械と引き替えに債権を減らし、お互いに損だったと思います。
とにかく、必要以上に卑屈になるまい、と思いました。
自分の名前も顔も出す。つまり、新会社も自分が社長になりました。
債務は時間がかかりましたが、とにかく処理しました。
初めて創業したときは、理想に燃え、「経営とはこうあるべきだ」と考え、社長も従業員も同じ給料にしたこともあります。
経理には明るくなかったので、税務調査が入って追徴金を取られたりしました。
税務署員から、「何があっても、全部の責任をとるのは社長なんだ。そこまで計算して社長の給料は決めなければいけない。決して見かけの働きだけで決めてはいけない」と言われました、今では良くわかります。
今では、会社を生かしていくのが大前提で、少々社員にはきつくても会社のために我慢してもらったりします。
昔の面影は、会社のピンチに給料を下げるときは、社長のを先に下げることでしょうか。
自分の息子には、なんとか会社を黒字で借金のない状態で引き継ぎたい、と思っています。
経営は苦しいことも多いけれど、それを乗り越えるか、乗り越えずに苦しむかはその人の気概のようなものに支えられます。
息子には「おまえは、性格からして、サラリーマンやってもウダツがあがるまい。事業をやった方が能力を発揮できるし、優遇されるよ」と言いました。
-優遇、とはどういうことですか?
「事業が順調に行っていれば、サラリーマンより有利だと思います。自由であるし、情報も人より入りますし。」
自分は、学校の勉強は嫌いだったのですが、若い頃から実験が好きで、月給8千円の時代に1万2千円の化学の事典を買ったり、化学が大好きでした。今後は、変わった仕様のものを製作できるとか、特許を実用化するとか、少しは楽しみながら経営したいと思っています。
13.私の脱OL経営記(3)
えー、それでは再開します。前回まで、独自の販売促進・住民票→地図→ポスティング作戦で、5人の生徒さんが来てくれました。たった5人です!採算が合いません。採算をよくするには、当然、もっと生徒を増やさなければなりません。しかし、増やそうと思ってもなかなか増えないのが世の常です。投票率を上げようとしても上がらず、利益を増やそうとしても増えず、交通事故死を減らそうとしてもなかなか減りません。塾経営は素人だった彼女は、今の5人の生徒のために使うコストと、新しい生徒を増やすためのコストは全然違うモノだと考えました。今の5人の生徒はちゃんと月謝を払ってくれる“お客さん”ですが、これから募集する生徒さんはまだお客さんになってくれるかどうかわかりません。来てくれなければ、かけた費用は、むなしいものです。それなら、来てくれるかどうかわからない生徒さんよりも、現に今来ている生徒さんを大事にしようと考えました。この考えが経営する上で、いつでもどこでもどういう場合でも正しいかどうかはわかりません。ただ、塾経営者として素人だった彼女がスタートする状況では正しい選択だったといえます。少ない生徒さんを大事にすることだけに集中したため、塾経営の基本を短時間で身につけられました。それに、「自分流の塾のスタイル」を生み出す経験にもなりました。この「自分流」というのは、経営には大事なことです。経営では他社の例をそのまんま自社に持ってきてそのまんま使えるということはあまり多くありません。厳密に言えば、全然ありません。企業の置かれている状況はそれぞれ異なり、正解は企業の数だけあり得るからです。つまり、自分流のスタイル、自分が使いこなせるスタイルを作り上げることが必要なのです。ただ、他社の事例が参考にならないということではありません。経営の基本はどんな企業にも共通の要素があります。他社の例を“自分流”に置き換えて生かす、これは大いなるヒントになります。ただ、その場合でも“自分流”を持っていることが必要です。“自分流”をもっていなくてマネするとお猿さんになってしまいます。で、どう大事にしたか。まあ、5人の生徒さんが、かわいくてしかたなかったんでしょう。イベントをやりました。お祭りの模擬店に出展してアイスコーヒーを売りました。子供達に手伝ってもらいました。楽しかったです。夏にはスイカ割り大会をやりました。生徒だけじゃなく、お友達も連れてきました。楽しかったです。ハイキングにも行きました。またまた友達を連れてきてくれて楽しかったです。勉強するときはちゃんとやる、楽しくするときは楽しむ。しつけまでやるようになりました。良いことをした子を一所懸命ほめていたら、みんな良いことをするようになって、ガムやなんかも自分で拾ったり、ゴミ箱に捨てたりするようになりました。自分が勉強で苦労して、わからないことが多かったので、生徒がわからないことにぶつかったときは一緒に考えました。ほんとに、自分もわからない問題だってあったのです。本部から派遣される先生にはそんなことをする人はいません。手引き書に回答も解法も書いてあるから、それを押しつけるだけです。でも、一緒に考えていると、生徒と競争になりました。生徒が自力で、先に解こうとするのです。先生に勝ったときのうれしそうな顔!そのうちに、生徒さんが連れてきた友達も入塾してくれました。生徒が50人に増え、塾が楽しくてしょうがない。そのうちに、全国模試1位!の生徒が出ました。10位以内に何人も入りました。しかし、好事魔多し、と言います。本部から派遣される先生方が間に合わなくなってきました。授業が予定どおり出来ないじゃないか。お客さんはもっと怒ります。まずい。本部とやりとりが激しくなる。イライラが募る。生徒は減っていきました。実に厳しい世界です。一時は塾をあっさり廃業しようかと思いました。でも、子供達と一緒に考え、イベントをやり、みんなが楽しいといってくれた塾は続けることにしました。卒業生が遊びに来て、「わたし、大学を出たらこの塾の先生になります。それまでまっててね」と言ってくれました。今、フランチャイズを解消し、独立した塾として再スタートを切ったところです。
あとがき
えー、実は塾という奴は大嫌いなんです。だから、この人の所に取材に行くのは気が重かった。でも、「生徒と一緒にわからないことを考える」「正解を押しつけない」これにホレましたよ。私は。がんばってください。ホントに。でも、心配があります。この人は多才すぎるのか、塾経営だけでは満足していません。「塾は採算にのせて人に任せて、自分は他にもやりたいことがある」と言っています。やりたいことはドンドンやってください。でも、この塾の良いところはぜひ維持して、発展させてください。お願いします。
おまけ・適性チェック
実は、この塾、赤字の時期が長かったのです。その赤字の穴埋めは、彼女の得意の通訳・翻訳で埋めていました。これを読んで、「なるほど、そうか。大変だったな。でもおれの事業も、いざというとき赤字を埋められる手段があるといいな」と考える人、経営者向きですねえー。逆に「なんだ、そうだったのか。それじゃあ、通訳・翻訳が出来ない人間には参考にならない事例だ。そういう条件があったから出来たんじゃないか」と考えた人、もう少し前向きに考えないと、経営者向きでは無いですねー。
14.ホバークラフト社長の道楽
その社長と出会ったのは私(某商工会経営指導員)が駆け出しの頃、何もわからない頃だった。制度融資を借りたいというので、確定申告書を見たら、年間売上げが400万くらいだった。鉛筆書きのきたない字だった記憶がある。
その社長は、ホバークラフトを作ってる会社の社長ではない。
建設業、不動産業あわせて3社、年商25億である。ホバークラフトは趣味。
以前はオートバイが“道楽”だった。ホンダの古いナナハンだった。それから4輪車に変わり、フォーミュラ1,シボレーカマロ228,同スーパースポーツ、ベンツ560C、キャデラック・スーパースポーツ、シーマスポーツ。
“スポーツ”がつくのは、自分専用にオーダーメイドしたものを含んでいる。
その社長の話。
「今、利益が上がりすぎて税金をいっぱい取られるだろ?だからってごまかして金を持ってるとロクな事にはならないんだよ。
そんなら、クルマを買った方がいいだろう?クルマってのは、いいよなあ!自分の自由に走れるんだぜ。ハンドル切れば曲がるし、ブレーキ踏めば止まる。自分の女房だって、ここまで言うことは聞かないよ。クルマの中は自分の空間なんだし。
クルマの値段が一台1000万だ2000万だとなると、やっぱり金を使ったなーという気がするよな。だから、その分仕事に打ち込もうって気になるじゃないか。クルマは仕事で努力する励みだよ。オレにとっては。
逆に使わないで金で持ってるとなあ、金に縛られるようになっちゃうんだよ。
だから会社の金はすぐ銀行に持っていかせるんだ。手元にあると我欲が出るんだよ。人に預けとくと、それは出ない。何か人からモノを借りて長く使ってると、返すのがめんどうになるだろ?あれと同じだよ。
金は魔物だ。恐ろしいよ。だから個人の金も財布は女房に預けちゃうのさ。
うちの会社は、専務と女房で持ってる、と言う奴が多いのさ。銀行でも取引先でも。それでいいんだよ。自分の社員を馬鹿だのなんだのと言う社長は、それこそ馬鹿だよ。
うちには優秀なのがそろっていますからよろしく、というのが本当だろ? ゴルフもおもしろいが、あれは仕事だな。仕事よりむずかしいけどな。ゴルフは、経営より難しいじゃないか。ぜんぜん思い通りに打てないよ。
おれは、着るものは作業服にTシャツでいいんだ。ここは自分の会社だからな。仕事にふさわしいカッコならいいんだ。そのかわり、こんな格好でいると誰も社長とは気づかない。
銀行やなんかが、オレを見下して挨拶せずに上がり込んでくることもあるよ。 そういう奴とは取り引きしない。人の家に来たら、犬にでも挨拶しろ、というのがおれの主義なんだ。相手を見て、社長ならおじぎする、門番にはおおいばり、なんて奴は取り引きしない。
おれも因業なんだよ。
こないだ、ホバークラフトを買って、水の上で走ったんだ。だけど、あれは、エンジンが止まると、沈んじゃうんだよな。あのときは、少し怖かったよ。後で、沈まないようにフロートをつけさせた。外に置いてあったの、見ただろ?
ホバークラフトで走るのが夢だったんだよ。それに走るのをやめたら沈むってのも、おもしろいじゃないか。人間と同じだよ。止まっちゃだめだ。走らなきゃ。おれだってきれい事だけじゃない。いままで人を苦しめたり、悲しませたりしたこともある。だけど、おれは自分より強い奴を食ってきたから、強くなった。弱い奴を食ってるとだめになる。強い奴に向かっていくと下のものが応援してくれるのさ。」
青年部員特派員の報告
夕方おじゃましたんですよ。そしたら、“不動産××”の方の事務所あるでしょ。あそこが、夕方5時ごろになると“クラブ××”になるんですよ。それで社員の人たちが集まってきて、ハイリキとか飲み出すんですよ。
しばらく飲んでると、社長が居なくなって、また出てきたときは着替えを済ませてるんですね。バリバリのスーツを着て、時計やブレスレット(肩こり防止用だそうだが)もつけて決まってるんですよ。
それから出かけるんだけど、クルマに乗ると、自分で運転してエンジンはキュイィーン!ってスタートさせるんですよ。“キュイィーン”ですよ。
行き先はなじみのクラブで、社長はそういうカッコしてるでしょ。従業員の人もすごみのある人が居て大声で「オヤジ!」とか言うから、間違えられますよね。
だいたい2時頃まで飲んで、帰りは運転代行です。おもしろかったです。
あとがき
あー、中小企業の経営者のまずい点の一つに、ちょっと儲かるといい気になって偉くなった気分、無駄遣い、事業への投資減少、じり貧、というパターンがあると聞いていますが、この社長はどうなんでしょうか。
クルマを買うことが目的でなく、仕事の励みということなので、これが逆にならなければ良い、しかし、言うは易く行うは難し、という奴なんでしょう。
もうひとつ、多くの商店街ではお店の後継者がいないのが、悩みになっています。しかし、ある商店会長さんに聞いた話ですが、「後継者が居なくなるのは、店主が遊ばないからだ。仕事が終わったら、「疲れた」なんて言って寝てるようじゃだめだ。スーツを着て遊びに行け。疲れたと言って寝てると、子供がそれを見てて親の後を継ぎたく無くなるんだ」
これは、素朴な表現ですが、鋭い意見だと思います。
また、有名なコンサルタントに聞いた話ですが、「社長の給料が低いようでは、その会社に良い社員がいるわけがない。社長が自分より社員の給料を高くすることは出来ないんだから、社長の給料が低いということは、社員の給料も低い、ということだ。」
つまり、社長さんは、会社のために働くだけじゃなくて、成果をあげたら自分も大いに楽しんだ方が良い、それをできるだけ社員や後継者にも味あわせてあげた方が良い、ということなんでしょう。
おわり。