経営と開業の事例 #30 印刷製本業事例3 戸 田市商工会トップメニューに戻る
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東京にいけば社長になれる!


1.開業の経過
 社長は鹿児島喜界島出身。祖父の代は、裕福だったという。父は船乗りで、大連航路の客船に乗っていた。戦後は、空襲で家を焼かれ、住むところ無し、家畜も全部焼かれてしまっていた。住んでいた島は焼け野原。
米軍は全島を基地化する計画があったようだが、この島では水が不足するということでとりやめ、沖縄になったようだ。
 自分は6人兄弟の2番目で、子守をやらされたが、これが今までの人生で一番辛かった経験だと思う。今のようなオムツも無ければ食べ物も不足していた。子守が自分の仕事だったし、他にも馬の世話、農業の手伝いで、靴も無く、はだしで中学へ通っていたが、「仕事」が忙しかったため、あまり勉強はしなかった。
 島から東京へ行って事業を起こし、社長になったという人が何人かいた。
子供心には東京に行けば、すぐに社長になれるものだと思いこんでいた。だから学校へ行くよりも、早く東京へ行きたかった。
 昭和30年3月に東京へ出る事ができた。4/1から島出身の人の活版印刷会社へ就職した。文京区と新宿区に工場があった。
 そのころから大手・老舗の印刷会社が文京区にあり、周囲に印刷会社が多かった。当時の大手印刷会社は文化の筆頭であったと思う。
 仕事にも慣れてくると、早く社長になりたいという思いが強く、20才になったのを機会に、出稽古のつもりでいろいろな印刷会社に出て働き、その後27歳で独立した。
当時は大手企業がいろいろな仕事を外注に出したので独立しやすかった面もある。中古機械を買うのを故郷の人が応援してくれた。
島から東京に働きに出た者には、島からの支援がいろいろあった。今思うと、島を出る前から「この子は見込みがあるか、ないか」と評価されていたのだと思う。

2.苦労した事
独立後6年くらいの頃、通産省が構造改善のためにオフセット印刷の推進を方針として打ち出した。しかし、それは大手でもなかなか進まなかった。
自分は戸田に工場を移し、活版とオフセットの両方を始めたが、仕事はあまり無い、オフセットの知識やノウハウも不足、死にそうに苦労したが、仕事は努力と人づての紹介で増えていった。弟と分担して仕事をした。
オフセットの仕事が順調になると活版が悪くなっていったりした。いよいよ活版から撤退するときもたいへん苦労した。
 いろいろな会社を見ていて、従業員寮の整っている会社が事業も伸びていると感じた。そこでワンルームマンションのハシリの時期に大手企業の寮の設計を参考にして独身寮を作った。
 当時は地方から来る者が多く、寮は大変喜ばれ、雇用の確保に役立った。
 現在、従業員25名で両面カラー印刷ができる。営業は子供二人に担当させている。一般的に中小印刷業界の営業マンは行儀が悪く、自分で取った仕事をよその会社に持って行くような事もある。
 当社は公共的な仕事にも入札はしているが、そのような仕事はなかなか採算が合いにくい。それより人のつながりを大事にして出版社とのルートを強めるとか、現在のお客様を大事にして仕事を確保している。
新規のお客さんはプラスアルファの意味で開拓している。あまり新規を回りすぎると「ババ」をつかむことがある。いずれにしろ、営業のトップ、経理のトップは大事だ。
 印刷業は独立開業には良い業界だったが、ある程度発展するとそれ以上伸びるのはむずかしい。

3.起業する人へのアドバイスなど
 これから起業する人には「ベンチャー企業」をめざせ、と言いたい。ほかに無い特長を持った企業、という意味だ。努力すれば、昔より今のほうがやりやすいと思う。
 日経新聞を20才のときから欠かさずに読んでいる。いろいろな職種・業種向けの研修会などにも積極的に参加している。出版社の担当者と話をあわせるために、本を読みまくったこともある。
今でも、これからも勉強はやはり読書が中心になるのではないだろうか。
今後は中国から、ある程度の仕事が戻ってきて、業界は良くなるのではないかと予想している。(H17/10)

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