和紙の里

共同出資会社で観光客誘致・雇用創出

東秩父村商工会の“和紙の里”を見学し、商工会の福島事務局長にお話を伺った。

“和紙の里”は、和紙技術の保存・後継者育成と、和紙をキーにした観光開発を目指した複合施設である。
施設は、和紙製造所、伝習館・ギャラリー、研修会館、土産品直売所・食堂から構成され、建物は村の所有、運営は商工会が中心となって設立した株式会社でおこなっている。
その株式会社による食堂部門の年間売上は約4000万、会社全体の従業員はパートを含め15名、全員社会保険に加入している。村に減価償却費相当額の家賃、商工会にも手数料を支払い、株主には配当までしている、“優良企業”である。
これらの企画・開発を行ったのは福島事務局長その人である。

和紙の里を作ろうという最初の動機は、和紙とその製造工程に対する郷愁、それにふるさとである東秩父村に何かをつくりたいという思いだった。
和紙の伝統技術を保存し、後継者を育成したい。同時に観光施設としても生かし、むらおこしをしたい。
そうなると立派なビジネスである。が、単なる郷愁や志だけでビジネスはできない。

そもそも和紙のマーケットに将来はあるのか?そこで、東京をはじめとする主要都市の紙問屋、紙のユーザー企業などを電話帳で調べ、アンケート調査を行った。また、全国の和紙産地の製造業者にもアンケート調査を行った。
その結果和紙の需要は減少しているとはいえ、全く無くなることはない。産地はサバイバル状態でどんどん衰退していくだろう。放っておけば必ず壊滅状態になる。

しかし、紙の需要の減少より産地の衰退の方が早い。また、従来の用途だけでなく、インテリア等、新しい用途にも対応すれば可能性がある。従って、いま生き残り策を講じれば必ず生き残れる、という確信を持った。

そこで、任意組合を作り、和紙センター(和紙製造所)の建設計画を立てた。
これは、和紙の技術を後継者に伝えたり技術的な研究をする施設である。

たまたま、秩父地域で農林部の補助金が1口、宙に浮いてしまう事態が発生した。余ってしまったのだ。それが昭和59年1月のことだった。それを聞いて、その補助金をこの建設計画に利用しようと決めた。県庁の担当者が「あと2ヶ月あまりだ。大丈夫か」と心配したが、「絶対に大丈夫。」と言って毎日夜中の12時まで作業した。建設も商工会の建設業部会の協力を得て突貫工事をした。
開発を進めるに当たっては、地元の反対が一番心配だった。敷地内を農業用水が走っているし、農家に反対されるとやっかいだと思った。
大型店の出店並に地元説明会を開催し理解を求めた。こういう調整業務は易しくはないが、ベテラン商工会マンにとっては、ある程度手慣れた作業である。また、農協を飛び越して、商工会のプロジェクトに農林部の補助がついたため、農協とトラブルもあったが、なんとか納得してもらった。こういう仕事もベテラン商工会マンにとっては「良くある事」である。

しかし、和紙センター設立直後に、この事業の中心になるべき役員(現在の専務)が重病で入院するという事態に直面したときは、さすがに腹をくくった。彼がいなければ、この事業は進めることが出来ない。そうなれば、自分の責任は軽くない。職を辞さなければならないと思い、子供に「お父さんは、もしかしたら仕事を変わるかも知れないよ」と言っておいた。

施設の建設は商工会建設部会員の協力を得たが、これも普段からまとまりがつくように世話していたものだ。村で工事があると聞くと共同企業体を結成し指名参加願いを村に出し入札に参加させている。建設業者はまとまりにくいが、自分たちの利益にもなるとわかれば協力してくれる。
和紙の製造所をコンクリートの建物で作るというのはバカげているので、「木造にすべきだ。木造なら村内の建設業者で立派なものが建てられる。これもむらおこしである。」と言って、村当局に要望し、結果として落札することが出来た。

和紙製造所が完成したのは昭和62年の3月だが、その後平成元年に伝習館、展示館、平成2年に研修会館、直売所と食堂を完成させ、日本庭園とあわせて、レジャー施設としての体裁も整った。
村議会からは「入場料を取ってはどうか」と言う意見もあったが、入場料無料、入場自由を押し通した。それまでの数年間、着々と建設を進め、成功裏にここまで来たので、商工会(福島局長)の主張には信用と実績がついていたのだ。

食堂のメニューも福島局長のこだわりが貫かれている。手打ちそば、うどん類のみで、ご飯ものはない。天ぷらはエビは無し、野菜のみの精進揚げである。そばは粉の分量、挽き方、打ち方までテストを繰り返して仕上げた。
価格は損益分岐点を計算した上で付近の食堂・レストランの価格帯を調査し、地元の人が普段のお昼を食べに来られる設定にした。

広告宣伝費はかけていない。テレビ埼玉が独占で放送したいと申し入れてきたので、開業日はテレビ埼玉だけが放送した。それを見たTBSが奥秩父の取材の帰りに寄って和紙センターを取材し、それをゴールデンタイムで流したので他局も取材に来て一気に観光客が増えた。
村内の和紙製造器具・設備はおおむね和紙製造所に収蔵・保存することが出来た。今後は、全国の和紙産品を集めて和紙博物館を作りたい。それが完成すれば、一連の計画は完了、といえる。

村内の活性化を図ろうとしても、人口が少ないので商店街の活性化というのは非常に難しい。そういう見込みの薄いものに時間とお金をかけていくら努力してもなかなか成果が上がらない。
それよりは元々地盤のある工業(和紙)を活性化させようとした。工業が活性化すればそれに付随して商業の可能性も出てくるという考え方をした。


こういう立派な事例に感想を書くのは大変おこがましいことですが、これも役割ということで、ご勘弁下さい。

和紙の里開発の話を聞いて、これこそ起業ではないかという感想を持った。
和紙の里の敷地は、中学校だったという。人口の減少で廃校になり、跡地利用が決まっていなかったところを使わせてくれと村に掛け合ったそうである。
村全体としては人口が減少しており、その結果廃校になった場所を使ったわけだ。

和紙の業界も市場が縮小していて、将来性が豊かとは言えない産業であったわけだが、逆境を生かしてビジネスチャンスをつかむというのは貴重な事例と言えるだろう。
成功を導いた要因としては、まず、マーケットリサーチであろう。問屋や業界への綿密なアンケート調査とそれに基づく分析があった。

さらに、「クビを賭けてました」という集中力、「一種のライフワーク」として粘り強く作業を続けた継続力、商工会業務の経験を生かした調整力、調査結果に基づき、「必ず成功する」という信念を持ってあたったことなどがあげられるだろう。
福島局長は、大阪で民間企業の勤務経験がある。起業に必要な企業感覚は、そのころに培ったものと思われる。

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